そのまんま東
東国原 英夫
(ひがしこくばる ひでお、1957年(昭和32年)9月16日 - )
現在、日本の政治家、知事(宮崎県知事・第17代)。
元お笑いタレント。
ビートたけし率いる芸人集団たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子。
俳優、作家。
最終学歴は早稲田大学政治経済学部中退。
タレント時代の芸名は「そのまんま東(そのまんま ひがし)」。
1980年、フジテレビの『笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」というオーディションに、
「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、
同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て、1982年3月に付き人となる。
デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。
直後、コンビの相棒が芸能界入りする目的であった、人気アイドル歌手河合奈保子を生で見たことで満足、
芸能界を辞めるということでコンビは解散、
やむなく京都産業大学の学生だった丸山昭範と3か月だけという約束で、コンビを結成。
師匠たけしのコンビ名「ツービート」の「ツー」をもらって「ツーツーレロレロ」と名乗った。
3か月後、芸能界を辞める丸山に、たけしに黙って失踪したという事にしてもらい、
東は当時テレビ局でADをしていた大森うたえもんとコンビを組んで「ツーツーレロレロ」を続ける。
人気漫才師ビートたけしの弟子と言うことで注目され、関東の有名大学をコキおろすネタを主にやっていた。
1983年にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消。
「そのまんま東」の名前の由来は、たけし軍団メンバー全員の芸名を変えるという宴席で、
自分だけ新しい芸名が与えられなかった東が「師匠。私は名前はどうなるのでしょうか?」と聞くと、
芸名を思いつかなかったビートたけしが「お前はそのまんま、“東”だよ」と最初は答えていたが、
途中でいたずらっ気を起こし、「だから“そのまんま東”だよ」と言い切り、これがそのまま芸名となったという。
テレビ番組で細木数子に「テレビに向いてない」と言われたことがある。
不祥事で芸能活動を自粛していた1987年に書いた推理小説『ビートたけし殺人事件』がベストセラーになり、
翌1988年にはTBSでドラマ化、
東自身もたけし軍団の面々と共に出演。
後に結婚することになるかとうかずこもヒロイン役で出演した。
不祥事で謹慎中に、入学した早稲田大学第二文学部では、
卒業論文のテーマとして選挙活動を扱ったほか、
卒業後も同学政治経済学部に再入学して政治学を学んでいる。
官製談合事件で現職知事安藤忠恕が逮捕されことに伴う宮崎県知事選挙へ無所属で立候補。
東は、選挙活動にはタレント候補にありがちなタレントの応援を一切受けない作戦を立て、
「脱タレント」を印象付ける選挙活動を展開した。
宮崎再建・宮崎自立のための具体策を打ち出したそのまんまマニフェストや
無所属であることの「しがらみのなさ」を強調しての県政批判などは、
政治に無関心な無党派層の関心を呼び起こしただけではなく、
現状に不満を持つ政党支持層へも支持を拡大していくこととなった。
知事「東国原英夫」として選挙活動は
芸名の「そのまんま東」で行なったが、県知事に就任してからは本名の東国原英夫で活動している。
報道番組やワイドショーが連日報道したため、宮崎県の注目度が上がった。
東国原姓は宮崎県都城地域や鹿児島県曽於地域において、少なからず見られる姓である。
宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校時代はハンドボール部に所属。
大学は記念受験で早稲田大学、明治大学を受験したが、
地元紙の「大学合格者一覧」には名前がなかったという(本人は合格したと言っていた)。
一男一女を設けるが、16年目にして、
かとうが夫の宮崎県知事選出馬という夢についていけないということで、2006年2月3日に離婚。
新そのまんま日記!